昭和54年8月23日 月次祭
えー、せっかく、おー、えー、金光教の、んー、副教会として、合楽教会が認められ、えー、これからも、んー、そうしていくことでしょうが、んー、合楽教会があるおかげで、と、値打ちのある、ね、神様からも、沢山の人からも喜んでもらえれる、そういうお教会に御とりたて頂きたいと思う。
皆さんもせっかく合楽教会に、このようにして、ご縁を頂いておるのでございますから、えー、一角のご信者に御とりたて頂きたい。言うならば、あー、値打ちのある信心を頂いて、値打ちのある信者として、御とりたてを頂きたい。言うなら、一角の信者に御とりたてを頂きたいという願いを持たなければならない、また、願わなければならないと思う。
私は、先年、伊勢参宮をいたしました時に、うーん、(ふたみざごや?)を見物いたしました。皆さんも出られた方が多いでしょうが、もう(ふたみざごや?)行って、ほど、(なっかして?)ございませんでした。(ふたみざごや?)というから、よっぽど景色の良い所で、えー、絵葉書の台、見ると、素晴らしい感じですから、ところが、どれが(ふたみざごや?)かちゅうたら(笑い)、あすけあるとが(ふたみざむら?)、(笑い)。
ああ、そういやあ、あそこの向こうに岩がこうあってから、こう絞め縄がこうはってある、この細かほん岩が、あー、あのあれを二つでやる、夫婦岩だとこう言う。ね。もう本当にがっかりするような、あー、景色でした。うん、けれども、やはり、あれは、あの、お宮さんがお祭りしてあります、大きな方の岩の方へ、小さい岩がこうある。ね、それにこう、絞めがこう張ってある、岩から岩へ絞めが張ってあるですね。あの絞めで繋がっておるのであり、あの、それこそ絞めで値打ちがあるように思うんです。(笑い)。
あれも絞めが張ってなかったらね、大した事ないと思うんです。絞めが張ってあって、はあ、あれが夫婦岩だなあと。いう感じです。絞めということは、ご理解を頂きますと、一生懸命だという事だと。例えば、お相撲さんが、あの、横綱が張ってある大きな(?)でという、各々、土俵に出る時に、絞め、今のは、あー、布で作ってあるでしょうかね、あれは、(?)を皆張ってます。
あれは、投げ殺されても、文句は言いませんという、言わば印だそうです。ね、ですからね、一生懸命参りよります、拝みよりますという一生懸命ではなくてです、ね、言うならお教会との繋がり、親先生との繋がり、というものがです、ね、例えば親先生が立派な岩が、岩にあって、んなら、皆さんが小さい岩であってもですね、そりゃ反対を言うてもよいけれども、ね、そこに、こうしめ縄がこう張ってあって、初めて、その夫婦岩が生きてくるように、その一生懸命というそのしめに結ばれておるという事が、私は値打ちだと思うです。
信者としての値打ち、いや、一数の信者というのは、そういう信者を言うのだと思います。一生懸命、ね、言うならば、ね、親先生に投げ殺されても文句は言いませんという、信心なんです。ね。
御取次ぎを願う、もう右左は親先生にお任せする。それでも痛ければ痛い、痒ければ痒いで、繰り返し繰り返し、もうそげん何遍でん言わんでよかというような事はない。心にかかるならかかる事一生懸命、お願いするがいいけれども、お願いをしたその後はどうなるじゃろうかと言ったような、言うならば、あの信心のほどを私としては、どうにも仕様がない。先生、助かりましょうかね、知らんばんのちゅうごとある。(笑い)。
あんたの心次第たいと、またそう神様がちゃんと教えておられますもんね。うん。真心で成就せんことはないと仰るんだから。あんたの真心ひとつたいと、(笑い)、言いたいような、あー、場合がございますが、ね、苦しいなら苦しいと願えばいいのです。ね、どうなりましょうかと、そこはもう神様にお任せをして、言うならば、おかげを頂く、それが、私はちょうど、私と皆さんの間に、一生懸命のしめ縄が張られたようなもんじゃないか、そこに私の値打ちも、出りゃあ、お取次ぎを願われるご信者の値打ちも出てくるもんだと思うんです。ね。
そういうね、ひとつの神様と私共との繋がり、交流というものをです、ね、感じさせて頂けるという、あなたにはもうお任せしましたと、身も心もあなた任せと、言うて、初めて、合楽し合う事ができるのであり、交流する事ができるのであり、それから生みなされてくるおかげを、私は本当なおかげだというふうに思うんです。
そこでその、信心の内容なんですけれども、いよいよ合楽教会も価値ある教会、値打ちのあるお教会として、おかげを頂かせて頂くために、最近、ね、天の心、地の心が、ね、足ろうた、言うならば信心という事が言われます。もう合楽の信心は黙って治める。ね。いわゆる土の信心である。ね。もう土の信心に極まったと言われておりましたが、最近では、これに天の心を加えて完璧の信心という事になる。
私共が、言うなら、黙って治めるとか、成り行きをいよいよ尊ぶとか、いよいよ大切にするとこう言う。そういう信心にです、今朝からの御理解に、「神徳を受けよ、人徳を得よ」という、あの、御理解に基づいてですね、言うならば、合楽は神徳のおかげを、例えば頂いておるといたしましても、人徳というものがない。そりゃここで、親先生の取次ぎを頂いて、おかげを頂いて助かったという沢山の人は、まあそれこそ、親先生を神様と言う。けれども一歩外へ出て、合楽以外の方達ともう合楽のごと評判の悪い教会はない。ね。
だから、その評判の、が悪い教会けれどもない、一度合楽に足を踏み入れると、もう合楽からは離れられない。なるほど、これは、あー、その(?)に言うように、そげな、あー、大坪さんという人も悪か人じゃない、教えも素晴らしい、おかげも頂けるというように、結局、分からんな、あー、いろいろ、批判をしたり、悪口を言うたりしとる人ばっかりだから、もう問題はこっちが大きくなる以外にはない。こちらがおかげを持って示していく以外にはないといったような、私も考え方をしておりましたけれども、今日辺りの御理解を頂いてみると、どんなにおかげを頂いて見せてもこういう素晴らしい実証を立ててみてもです、それを振り向こうともしないという事実があることに、気が付いたという感じです。今まで金光教が始まってこのかたです、ね、言うならば、海外布教は合楽理念を持ってする他はないと私が申しますようにです、ね、それこそ、言葉は通じんでも、ね、合楽理念を持ってするならば、助かるんだという実証を、わずか半年余りではあるけれども、南米の地に末永先生が、それを示してきた。
その後もやっぱり、帰って、今はあちらにおりませんけれども、今日、所在ですけれども、やはりおかげを頂いて助かっていっておる。今日も手紙がまいりました。ね、今までかつて、そういう事が金光教の中であっただろうか。だからそういう実証というものが、あるけれども、ね、なら、布教、おー、海外布教を言うとらんことはないけれどもです。んなら海外布教がそういう、言うならあちらの言葉も知らんなり、ね、訳も分からんなりに行っても、合楽では合楽理念を引っさげて行けば、人が助かると言っておるが、本当だろうかと、御本部そのものが、合楽に、言うならば、あー、(けいとう?)するという、(けいとう?)と言うと何ですけれども、えー、合楽の信心を研究しようかというような人があってよかろうはずだけれども、ないのです。
先日、御本部のある、まあちょっとした偉い先生が、あー、こちらの教会へ、近所の教会の先生に、伴われて参ってみえた。それでその、海外布教のことについて、ちょうど、えー、末永先生から来とった手紙を2,3通持っていって、見せた。もう本当に勿体無いほどしのおかげを頂いておるという手紙が書いてある。(笑い)。(?)を見せたら、ぽろぽろっとこう、はあこら親先生、親先生っち書いてある、そこだけしか見とらん。
親先生有難うございますがなく、便せんの中にいくつも書いてありますよ。だからそこんとこだけ、ほう、親先生、親先生っち書いてあると言うて、内容は見らなかった。もう本当に悲しいごと、がっかりいたします。で、それがどうしてかと言う、だからもっともっとおかげを頂いて、これでもかこれでもかというおかげを頂いて、おかげを持って示していく以外にはないというふうに、思うておりましたけれども、それではない、やはり、合楽には人徳的信心がないということ。人徳がないという事を、今朝の御理解を頂いてから、いろいろ感じさせて頂いた。
それにはいよいよ、天の信心に極まる。天の信心をいよいよ頂かなきゃならん、限りなく美しゅう、しかも無条件。その美しい心、言うなら無条件の心をいよいよ表現することのために、潔いという心が必要であるという事が説かれます。ね、それで、初めて、はあなるほど合楽という事になってくるんだという訳なんです。
今日、「たけむら?」先生が、んー、お届けに出てまいりました。今朝から、あの、神様のいろいろお知らせを頂いた。大きなスイカをね、スイカの中身を、ね、こう、えぐってですね、中のスイカで、うーん、蚊取り線香を作っておるという事である。スイカを食べとるのじゃない、スイカで蚊取り線香を作っておる、しかも作ったその蚊取り線香を、うやうやしゅう、上野愛子先生に捧げておるというお知らせであった。
皆さんどういう事だと思うですか、ね、スイカという事は、皆さん、合楽の方達には、すぐ分かると。スイカというのは、スイカの行もいとわんという、ね、どういうきつい修行でも、いとわない。それを火や水の行、スイカの行。合楽ではそういう表行的な、火の行、水の行をいたしませんから、ね、その火の行、水の行にも匹敵するほどしの行が私共の、前にはあるという事。
私共の周辺にはあるという事。ね、その苦しいとか難儀な事をです、そのまま修行として頂いて、これを蚊取り線香を使う。蚊取り線香という事も、皆さん、ご理解を頂かれている方は分かるでしょう。ね、あれは左巻きです、ね、馬鹿と阿呆で道を開けとこう、いよいよ豊かな大きな信心を、まあ馬鹿と阿呆と言うてもいい。言葉が違うだけである。ね、しかもその左巻きの信心に、信心の火が灯る。
そこには、自分も煩わしい思いをせんですむ、人も煩わしゅうない。自分も助かれば人も助かるという手立てができるのが、あの蚊取り線香の信心。馬鹿と阿呆で道を開くという事は、自分だけが助かるのではない。自分の周辺の者も助かっていくという、ね、神様が何を一番喜んで下さるというても、自分が助かり人も助かり、自他ともに助かっていくというような信心を神様が喜んで下さらないはずがない。
そういう信心を上野愛子先生にこう捧げると、上野愛子というのは、天地金乃神様の表現なんです。最高の愛という意味なんです。上野愛と。ね。そういう信心を神様が一番願い求めておられるのであるから、本気で馬鹿と阿呆になれよ、本気で馬鹿と阿呆になって自他ともに助かっていく信心の修行をさせて頂けよという事なのです。ね。少しは馬鹿と阿呆になるとばってんか、徹底してしきらん。
今日も研修の時に、矢野先生が発表しておられましたが、先日、御本部へ行った。合楽では成り行きを大事にするという、土の信心という、黙って治めるという、ところがあそこの信者は、いっちょんそれが、成り行きを大事にしよるように思われん。本当に、言うならば土の信心が、それが土の信心かといったようなところがあるという評判を聞いてきた。ね。
言うなら、まあ親先生はその信心で徹底しておられるだろうけれども、信者はそれがね、不徹底だと。各々がしておるつもりだけれども、つもりであって、本当に徹底していないところに、ちらちらと馬鹿と阿呆にならなければならんところを、に利口、賢うなろうとする。ね、ここは土の信心で黙って治めなければならんところを、ちゃんと一口言うてしもうたというような事では、やはり、もう合楽の信心がそういうふうに皆が、提要づけられていますかね。
合楽は成り行きを大事にする、黙って治めるという、ね、全ての事に恩の字を付けて頂くという、もう皆が知ってるんです。だからそれも、恩の字を付けて頂かんと、お前は合楽で信心しよってから、おかしいじゃないかというふうに、批判をされる。そういう向きがあったという発表をしておりました。ね。これは、甘木辺りでもそうですね、一切が神様の恩物だと、それが、まああちらの信心の、まあ、言うなら看板のような、ね、と言うて、なら、あちらの親先生ほどに徹底してです、ね、一切を神様の恩物として頂きぬかれた方は無かろうと思うけれども、その教えを頂いておる者は、だんだんそれが雑になってきたり、不徹底な事になるのは、まあ当然かもしれませんけれども、ね、それではね、言うならば、今日言う神徳、人徳が受けられない。
しかもその気になればできるという手立てが、合楽理念によっては長々と説かれておる。ね。どうでしょうか、いよいよ黙って治めるが徹底しておるでしょうか。本当に「成り行きを尊ぶ、大切にする」と言うが、成り行きを尊び、大切にしておるでしょうか。ね、ほん、もうこここそ土の信心だと、土の信心に徹底しておるだろうか。もう合楽の信心からこれを抜いたら、もう骨抜きになりますよ、だから、言うなら評判もまた、悪い上に悪うなっていくという事になるんじゃないでしょうかね。(笑い)。いう、私が初めに申します、一生懸命が足りないからだと思うです。ね。
今日は研修の時にも、皆さんに聞いて頂いたんですけれども、今朝から、今朝からというか、朝から、ちょうどここへ、えー、12時頃出てきました。そしていろいろお礼を申さして頂いて、まあお礼を申し上げても、申し上げても、足りない思いがする。もう昨日の事だけれども、朝からずーっとここでお取り次ぎさして頂いた、もう本当にもう、それこそ、勿体無いおかげを頂いて、有り難い有り難いで、いうお取次をさして頂くが、私ぐらいな者の取り次ぎで、私ぐらいな人間で、どうしてこういうおかげが頂けるようになったであろうかと、私は思わしてもろうた。うん。
ね、そしたら神様からね、あの、こう、おー、真剣と真剣とこへ、(かくてっぽう?)がもう十分自身があったらですね、もう相手をその、殺すつもりでおっても、こちらが殺すつもりがない時なんかは、これを、剣をぱっとこう、持ち替えるでしょうが、いわゆるみね打ちという。切れる方では切らん。いわゆるこれを、剣をね、ぱっとこう持ち替える所を頂いた。みね打ち。そして御理解に頂く事が、私が信心を頂くようになってこのかた、私がどういう些細な事であっても、ね、それがどういう難儀な事であっても、大きい事、小さい事に関わらず、それと4つにしっかり取り組んで、いわゆる真剣に取り組んで来たという事である。
しかも、取り組んできただけではなくて、それを全部、ね、やりつけるというのじゃなくて、ね、切って捨てるというのじゃなくて、全部がみね打ちであったという事である。殺さずに生かしたという事である。はあ、私もそれを頂いた時に、なるほど私のような馬鹿のごとある、言うなら私のようなつまらん無学な人間でも、この事に徹してきた事が、今日の合楽のもとであるという事を、昨夜頂いて、今日、皆さんに、研修ん時にね、みね打ちとはどういう意味だと思うかと、言うて皆に私が尋ねたんです。皆さんどうでしょう。ね。
どういう問題、今、どんなに煩わしいとか忌まわしいとか、ね、もうこういう難儀があろうかという、その難儀でもです、もう本当言うたら、私は今日、後から思うたんですけれども、私はその、めぐりすらも殺さずに、めぐりすらもみね打ちで片付けてきた。そして、そのめぐりを生かして今日の合楽があるというふうに頂いてもよいのです。豊かな大きな信心が育ってくるという事は、そういうところから、おかげを頂いてきておるという事が言えるんです。ね。
まずね、皆さんの真剣という事が足りない。ね、一生懸命と、私が皆さんに一生懸命という事、その一生懸命が神様との繋がりになる。親先生との繋がりになる。そこに勝ちある教会、価値ある教師、価値ある信者という事になるのである。それは例えばよし、投げ殺されてもいとわんという土俵に上がった以上は、ね、そういう、言うならば覚悟の事がいるんだと。合楽でだんだん信心を分からして頂けば頂くほど、ね。
言うなら、親先生任せという事が言われる。ね、という事葉、もう親先生のお取り次ぎを頂いて、もう右左は親先生にお任せするという事、そこに任せられた私が、お取り次ぎが大変、お取り次ぎが(しよと?)なってくる。こうなりますように、ああなりますようにと、言うておって、ああならなかったり、こうならなかったりすると、これだけ一生懸命お願いしたのにと神に不足を言うような者があると仰るように、ね、そして信心から離れていく人達があるように、ね、合楽で信心をだんだん分からして頂いたら、私と皆さんとの繋がりが、一生懸命、それは、もう神様に命を預けておるというような気持ちで信心をなさらなければ、信心も進まない。
今朝も御理解の中にも、ございましたがね、ただ、自分の願いが成就する事のために、一生懸命に勉強するというのは、ちょうど試験勉強をするようなもので、本当に勉強の身というものはつかない。実はつかない。ね。勉強が好きで勉強をする、せずにはおられない。そういう信心になってこなければいけない。
お互いの信心を、検討してみなきゃいけません。ね、信心が、ね、いわゆる勉強が好きになる、学問が好きになる、ね、学が身に付いていく事が分かってくる。ね、それが楽しいのである。するなと言われても、せずにはおられん。それこそ、二宮金次郎のごと、ね、(?)、夜ご本を読ましてもらうのに、いわゆる、もう、その、(ながね?)を参って、油を作ったと、山に焚き物取に行っても、もうその行きもとりはこうやってご本を読んで、行き戻り勉強をしたと。ね。
するなと言われても、せずにはおられないという信心でなからなければ、信心は育ちません。ね。おかげは頂いても、そのおかげはあの世に持って行かれる物ではありません。信心そのものが、持って行かれるのであり、信心の徳が力がこの世にも残しておけれるものなんです。ね。
皆さんに私が思わしてもらうのが、どうでもひとつ、ね、値打ちのあるご信者にお取立てを頂きたい。これは私が信者時代に、ね、もう教会一番の忠義者にお取立て下さいというようなね、そういう願いをお取り次ぎ願わして頂いておる自分に神様が、はあこれは変った事を言う男であるというふうに、実をつけて下さっておるじゃないだろうかと思うんですがね、ですから、いろいろ、自分でもです、良い信心を身につけたい、身につけたいならば、修行をいとうてはならない。いや、その修行は好きにならなきゃいけない。ね。その信心の、言うなら修行の味わいが分からなければできない。ね、その信心の味を分かっていく、言わば信者にお取立てを頂きたい。ね。
先ほど、西岡先生が前講で申しておりましたように、昨日の御理解の中に、相対性原理、(そうふごせい?)原理という、この原理に基づいて、合楽理念ができているんだと、これはもう最高の学問だと言われておるのですから、私共、無学な者がどういう事かは、分かりません。けれども、(そうほごせい?)原理というのは、その相手を生かすという事。ね、言うなら、そして自分も生きるという事。生かし、生かされるという事。ね。
寒いなら寒いを生かすという事。言うならば、暑いなら暑いを生かしていく事。そういう手立てが合楽理念には説いてあるという事を、昨日頂きましたがです、今日、私が昨夜頂いた、言うならば、言うなら、ね、みね、真剣ではあるけれどもみね打ちである。そして相手を殺すのではない、その難儀を抹殺しよう、難儀から逃れようじゃなくて、その難儀の中に、それと一体になれれるところの信心。ね。
どんなに(?)の(おり?)でも、ね、例えば(おえんばたー?)、ガラスがある。もう、なん、(おえんばたー?)は何ちゅうですか、もう( ? )になっておる。ね、(ながいすんでこげんをとぶとぶと?)と眠り気がくるようにある。言うならば、寒いけれども、その暖かさと、ひとつになって、うとうと眠りがくるほどしの、言うなら境地である。
んなら、例え飛び出して、その極寒の中にあってもです、若い人がスキーの山に登って、スキーをするように、ね、はあ今日んごとある寒か雪の日に、山に登らんなんちゅうのじゃない。それこそ、ジャンプからまた、ジャンプ。普通では乗り越えられないような所もです、もうそれこそひとつのスリルはあるだろうけれども、乗り越えて行けれるほどしの、言うならおかげを頂く時に、初めてその寒さと、言うなら、雪と一体になる事ができるという信心。ね。
それにはただ、おかげ型そばではなかなか、やっぱ信心を本気で頂く気にならなければ、その難儀の中に、言うなら味わいが、頂けるという事にはなりません。ね、いよいよ、ひとつ、どういう些細な事でも真剣に、しかもそれを相手を生かしていくという、殺さない生き方をいよいよ身につけていくという、ね、言うならば、天の信心、地の信心。天の心、地の心をいよいよ、身につけていく、おかげを頂きたい。ね。
そして、ね、合楽も、もうちっとは、言うならば、あー、まあちっと評判の良い(笑い)お教会にお取立て頂いて、初めて、合楽教会の値打ちというものが出てくる。そこで、御信心の稽古をなさる皆さんも、その教会長である、なら私と皆さんとの間が、その一生懸命で、結ばれていく、一生懸命というは、もうあなたにおすがりをしたのですから、それこそ投げ殺されてもいといませんというほどしの信心を現わしていくという事である。ね。
そこに、初めて、ね、それこそ、(ふたみがむら?)の景色ば見てから、私がっかりしたんですけれども、なるほど(ふたみがわら?)のあの二つの岩が、あの、しめで、こう結ばれておるところに、ははあなるほど、あれが(ふたみの、がうら?)であり、言わばあれが夫婦岩であるという事がしめによって分かるように、一生懸命が現わされて、初めて、言うならば、合楽のご信者であるという、ね、合楽にご縁を頂いておる者の、言うなら値打ちというものが、ね、出てくる。または、輝き出てくるほどしの、おかげにして頂きたいというふうに、思います。どうぞ。